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留学生活、続行。そんなスケオタブログ。
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6月28日付の、少し古い記事ですが。
四大陸から上海のショーまで、プロポーズの詳細と、パンちゃんとの出会いから今まで、そしてこれからのこと、結婚式のこと。長い記事です。
難しかったです。恥ずかしかったです。
この恥ずかしさを皆さんと共有したい一心で訳しました。どうぞお楽しみください。

あ、ついでで申し訳ありませんが、中国杯の公式サイトはこちらのようです。GPS関連の記事では、3人のスター(プル、安藤さん、ヨナ)は欠席、ライサチェク復帰!とか書いてあるみたいですね。

何度もチャンスを逃し、ともに苦難を乗り越え----佟健“求婚記”
http://skating.sport.org.cn/fs/domestic/2011-06-28/355118.html

◆何度も逃したチャンス

 バンクーバー五輪のあと、庞清との恋愛関係を認めてから、佟健の“プロポーズ”は多くのメディアの関心の焦点となった。
 「ずっと計画はあったんだ。特にワールドのあと、多くのショーが僕らを招待してくれた。今回の朗朗(訳者註:中国のピアニスト)のショーを含めて」と佟健は語る。

 すでに2月の四大陸選手権の時から、佟健はプロポーズを考えていて、こっそり出かけて指輪まで買っていたのだが、その試合はあまりうまくいかなかった。
 2つ目のチャンスは世界選手権だった。庞清と佟健はショートプログラムでトップに立ち、佟健は指輪をネックレスに通してフリーに臨んだが、結果的に彼らはフリーで実力を発揮することができなかった。

 「なかなか演技がうまくいかなくて、というか、少なくとも自分では満足していなくて、ちょっとなぁと思った。雰囲気も、気持ちもちょっとね」と佟健は言う。四大陸選手権はバレンタインと日付が近く、彼らのバンクーバー五輪(からちょうど一年)の記念日でもあったため、意味は大きかった。
 世界選手権では多くのペアたちのプロポーズの先例がある。佟健は庞清の目から「待っている」ことを読み取っていたが、完璧主義の彼は、最高のロマンスを愛する人に贈ることを追求していたのだ。

 朗朗のショーに出演することが決まったあと、佟健はついに決心をした。
 その一、彼らはこのショーの主役であり、一番いいところで演技をすること。特に第二部では、彼らの演技は最後から二番目だった。
 その二、ショーの雰囲気はプロポーズというロマンチックなイベントに合っていると、彼が判断したこと。

 「プロポーズは一番大事なんだ、庞清にロマンチックだと感じてもらわなきゃいけない。ショーの雰囲気はとてもよかった。照明、舞台、朗朗の演奏するピアノ……神様が僕のために準備してくれたみたいだった」と佟健は笑う。
 彼はさらに指輪のメーカーを探して、指輪を作ってもらった。6月10日までに完成させて、18日より前に受け取れるようにという注文つきで。

 佟健は記者に、こだわりの指輪を見せてくれた。
 「雪花、スケートの軌跡、そして『庞清我的真爱』の文字(訳者註:パンちゃんマイラブ)。氷が結んでくれた僕らの縁と、僕の中で庞清が一番美しいということを表している、これが一番重要だ。メインの石のまわりに細かい石が輪になってるのは、庞清を永遠に一番高く、一番美しいところに置いておきたい、彼女を守りたい、彼女を囲んで、引き立たせたいという願いを表してるんだ」
 片や、四大陸選手権と世界選手権の時に佟健が買っておいた指輪は、今は宿舎の本棚にあるトレーの上に、静かに横たわっている。「これも私のものよ」と庞清は笑う。

 面白いのは、この過程のあいだ庞清はずっと何も知らず、特に佟健と(そういった)話もしていないということだ。
 「実は、庞清が僕らの演技後に『気付いた』ことを、僕は分かっていたんだ。僕のネックレスに通っている指輪(のデザイン)が変わったのが、彼女にも見えたからね。でも、僕はそのとき特に何もしなかったから、彼女は数分間ガッカリしてたんじゃないかな。ははは!」と佟健は笑って言った。
 庞清の指輪のサイズについては、以前二人で出かけたときに庞清が指輪を買うのを見て、こっそり覚えていたのだという。

◆手を取り合い苦難を乗り越える

 連れ立って18年、庞清と佟健は、手を取り合ってアスリートとしての輝かしい成績を収めていくのと同時に、甘美な愛情を育んできた。しかし彼らはずっとその真相を明らかにしなかった。はっきりと恋愛関係になったのはバンクーバー五輪の後であったが、それも時期がきて自然と、という体であった。

 ふたりが組んだきっかけは、佟健が庞清を選んだことにあった。「当時一目見て、この子はすばらしいと思った。見た目や気質が気に入ったし、物静かで心地いいし、体格も悪くないと思ったんだ」

 意外なことに、彼らがペアを組んでから、佟健は庞清の性格が非常に頑固であることを知った。その頑固さのせいで、皆の前で佟健がどうしたらいいかわからなくなってしまうこともしばしばあったという。
 ペア競技では、男性が女性をエスコートするのは至極当然のことだ。彼が怒って自分の権利(訳者註:ペアにおける主導権)を行使しようとしても、なんと庞清は少しも納得せず、かえって彼の面子を潰してしまうのだ。「大体5年間くらい、お互いすごくわずらわしく思っていたよ」と佟健は振り返る。

 当時の彼らの境遇は非常に苦しいものだった。コーチである姚滨は北京でトレーニングをしていたため、彼らはコーチもなく、試合もなく、完全に希望のない状態であった。これがトレーニング中に衝突を繰り返す原因でもあったのだろう。
 1998年、庞清と佟健はついに試合に出る機会に恵まれた。そのときになって、多くの若い選手の技術レベルが自分達より高いことに彼らは気付いた。このとき、彼らのプライドが「もっと練習しないと」と警鐘を鳴らしたのだ。
 コーチと共に練習をしない期間が長かった彼らは、コーチとのコミュニケーションにまだ慣れていなかった。それが、二人の相互理解と助け合いの意識を強くすることとなった。

 「庞清はずっと僕を敬慕していて、練習も大体僕が中心になってやっていた。でも2002年からは、一人に頼っていては二人とも成長することはできないと思ったんだ。それから僕らはやり方を変えたんだ」と佟健は語る。
以前の彼は庞清に向かって話すとき、コーチのような(指示するような)口ぶりであったが、そのときを境に、相手を導くようなやり方に変えた。当初、庞清は自分の意見を言うのを渋っていたが、数ヵ月後には少しずつ口を開くようになっていき、佟健は「いいスタートだ!」と笑ったのだという。

 半年後には、庞清はプログラムやトレーニング中の些事にも関わるようになってきて、「こうしてみたら?」「これはだめ?」と、常にさまざまな面でコミュニケーションをとるようになっていた。佟健も彼女の上達を嬉しく思っていた。ただ、この時点でも二人は特に(異性としての)好感を持っていたわけでもなく、ましてや“来電(訳者註:ドキッ☆)”ということもなかったのだ。

 「庞清を好きじゃなかったのは、彼女を下手だと思っていたからかな。(当時の)僕は“上手い”というのがみんなの共通認識で、ダンスやスケーティングが庞清よりずっと優れていた。いろんな人に『相方を変えたほうがいい』って言われたよ」と佟健は言う。
 2002年まで、彼らが海外の試合に出ると、審判たちは彼らに向かって、スケーティングや技術はいいが表情がよくないと言っていたという。「庞清はあんなに綺麗なのに、なんで彼女のきらきらした笑顔が見えないんだ?」

◆簡単愛 不放棄 (←なんて訳したらいいか分からず、そのままです)

 庞清と佟健は色恋沙汰に関しては、同世代の他の人間ほど明るくはなかった。二人ともがお互いにとっての唯一であり、そして二人はその唯一を一生ものにしたいと思っている。

 十代の頃には庞清に好感を持つ男性が現れたこともあるが、これを佟健は大変不快に思ったという。「僕のプライドが許さなかったよ。自分の相方なんだから、僕が好きじゃなかったとしても、他の人に取られたくない!」
 それから佟健は庞清に特別親切になり、起こしてやったり、一緒に食事をしたり……そのうち、庞清は例の男性とは疎遠になったという。その後北京に来てからは、生活圏がますます狭くなり、二人とも恋人を作ることはなかった。

 「一生で一人の彼女しかいない、しかもこんな長い期間付き合うなんてね、はは」佟健は笑って言う。

 2006年のトリノ五輪のあと、庞清の技術レベルや表現力は飛躍的に上達したが、五輪でメダルを獲得できなかったことで意気消沈し、引退まで考えたという。しかし、これでは満足せず、あと一年やってみようとしたところに、交通事故や腎臓の病気など一連のトラブル(訳者註:Wikiによるとパンちゃんの腎不全)があって、あともう一年!……と、二人の負けず嫌いの性格が、彼らをここまで一歩一歩進ませてきたのだ。

 「低迷していた時期はかえって励みになって、より自分達のやるべきことに力を入れることができたよ。この頃から僕らは少しずつお互いを好きになっていたと思うんだけど、二人とも以心伝心みたいなところがあって、お互い何かを言おうとしなかった。ただ一緒に映画を観に行ったり、ご飯を食べたり、お茶したり」と佟健は言う。

 バンクーバー五輪の後、佟健が先に“障子紙を破って”(訳者註:勇気を出して一線を越えるというような意味です)、庞清も喜んで受け容れた。実はこの裏には、国家体育総局副局長である肖天の功労があって、彼は佟健との会話中にこんなことを言ったのだ。
 「君の実力なら、外の世界では色んな誘惑があっただろうし、素敵な女性を見つけることもできただろう。でも君は小さい頃から庞清と一緒にいて、いろんなことを経験してきた。君たちは幼い頃から、どのように困難に立ち向かうかを知っていた。一緒に困難を乗り越える、こういう関係は普通の協力関係とは違う。君たちが老いても、きっと一緒に振り返れる思い出がたくさんあるだろう……」
 この話が佟健の心を打ち、彼の選択を助けることになったのだ。

 二人は今や30を越えた大ベテランだが、未だに国際大会で活躍し、高いレベルを保っている。少し前にはカナダに渡って新しいフリープログラムを作り、そして4回転スロージャンプを再び取り入れることを公言した。
 「4回転スローは必ず練習するよ。4回転をやるには高い身体能力が要求される。普段の練習で取り入れればきっと身体能力も向上する。試合にも入れられればいいけど、もし入れられなくても、身体を鍛えるにはいい」

 プロポーズの後、結婚式はいったいいつになるのか?
 「可能性は2つ、オリンピックの前か、オリンピックの後だ」佟健は明確な時期は明かさないが、しかし彼はこう語る----僕らはソチへ臨む決心はできている!

----------
もうね、

らあああああああああああああ/////////

指輪のお写真はこちら(ご本人のつぶやきより)
真ん中の大きい石がパンちゃん、周りでパンちゃんを守り囲み引き立ててるのがトン兄です。ご本人が仰ったことです。
ちなみにトン兄さんはプロポーズで仰ったお言葉までフルで微博に晒しておられます。もう何も怖くない状態です。イエスフォーリンラヴ!!!
パンちゃんに最高のロマンチックなプロポーズを!って言ってるトン兄さんが一番ロマンチストなのではないかと思います。

や、なんかもう、突っ込み出したらきりがないので、みなさまセルフ突っ込みよろしくお願いします。
パントンGP欠場とのことで残念ですが、若手もベテランも、中国勢には頑張ってほしいですね。欠場の記事読んだら、新プロはSPパソドブレ、FSシェヘラザードとのことです。
ワールド2枠というのは、実質パントン、ちゃんず、スイハンの戦いになるのでしょうか。枠争奪戦、楽しみです。

あ、親戚が招待してくれたので、わたしは上海に行きます。フリーターです。
北京から近いようで微妙に遠い上海、久しぶりなので楽しみです。

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あかつきさんへ
この記事にコメントを下さったあかつき様。
丁寧なコメントありがとうございます!お返事が遅れてしまって申し訳ありません。
わたしがパントンを知ったのは昨シーズンのことですが、記事を訳していて、お二人が過ごした時間の重みを感じて、ますますファンになってしまいました。雪組ショー、CoC、GPFと生で見られてよかったなーと思います。
今季のGPシリーズ欠場は残念ですが、夫婦になったお二人の演技も楽しみにしたいですね!
また面白い記事があったら訳してみようと思いますので、ぜひまたいらしてくださいませ♪
佐野 2011/09/27(Tue)02:23:15 編集
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