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留学生活、続行。そんなスケオタブログ。
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このご時世にこういった記事を掲載する理由については、第一回のコメント欄(こちら)をご参照ください。
ゆる~い気持ちで書いております。ゆる~い気持ちでご覧いただけると幸いです。
また、人によっては不快に感じられる内容となりますので、自己責任での閲覧をお願いいたします。


◆ルール◆
キムヨナ選手を好きでも嫌いでもない中立的な観点から、日本未発売の自伝の中国翻訳版「あげひばり」を読んで内容をまとめる。
韓国語の原著を中国語に翻訳したものを日本語に雰囲気訳しているので誤差が生じることを踏まえて、私情を交えず、曲解せず、原文の意味を最大限伝える訳を目指す
曲名など翻訳が困難なものに関してはWikipedia先生を参照する。
訳の部分には私情は交えないが、感想はフリーダム。
訳は本気だが、企画の根底にあるのはギャグ精神とゆる~い気持ち。

訳の部分(青字)は転載可です。上記のルールにある「原文との誤差の可能性」をご了承いただいた上で、キムヨナファンの方も苦手な方も、ご自由にお持ち帰りください。
リンクは不要ですが、拍手やコメントで一言いただけると嬉しいです。
この記事を読んだ方がどのような感想を持たれるかはもちろん自由ですので、興味津々の方も、怖いもの見たさの方も(笑)、自分なりの捉え方をして下されば幸いです。

 ←第一回 第二回(いまここ) 第三回→

テンプレここまで(・ω・)続きから本編です。

◆最初に、クワンの発言、MBCテレビ、オーサーコーチの発言、NYタイムズ、ウォールタイムズ、BBCテレビから、賞賛コメントの引用があります。オーサー氏のコメントだけさくっと紹介します。
「多くの選手はオリンピックで金メダルを獲得したあと大きく息をつき、すべてが終わった、と思う。夢にまで見たものをすべて手に入れた、完璧な終わりだ。だが私は、Yunaの人生にとって五輪の金メダルはひとつの始まりに過ぎないものだと思う。」

◆まえがき「来シーズンは、幸福」
スケートを始めて13年、スケート界ではもう還暦を過ぎたといわれる。フィギュアの選手生命は短い。
自伝出版を打診されたときかなり悩んだ。自分はまだ若いと思っていたし、トレーニングと執筆を並行するのは大変だと思った。執筆経験もないし、記憶が曖昧な部分もあって大変だった。
過去の資料を調べたりして昔を振り返ることが、さらに自分に自信を与えた。いつも自分のファンやスケート界の後輩たちに何か言いたかったのでいい機会だった。
この13年間何度も転び、何度も泣いたけれど、この経験がなかったら今の自分はここに立っていなかった。これから先どんな苦難があるかわからないけれど、苦難の後には幸せの涙があると信じている。今の新しい目標は、「幸福なスケート選手」のキムヨナになること。

◆STEP1「夢、魔法の靴」
姉・両親とともに初めてスケートリンクに遊びに行ったのは5歳のとき。父親はスピードスケート、母親はフィギュアスケートが好きだった。
ローラースケートのできる姉と違って、私は氷上で立つことすらできず、父に支えてもらって教わった。新しい世界に入ったみたいで面白いと思うが、初心者なので転びまくった。
終わってスケート靴を脱ぐと自分が平凡な少女に戻ってしまったようで少し寂しく思った。そのとき入れ違いに、白いスケート靴にきれいな色の服を着た小学生が数人入ってくる。母親に尋ねると「フィギュアスケート選手」であるという。彼女たちの魔法のようなスピンやジャンプを長い時間見てからリンクを離れた。
このときは、それが数年後の自分の姿になるとは考えてもいなかった。

その年の夏、母がフィギュアの講習を見つけて姉妹分申し込んでくれる。母に何度も「いつになったらスケートしに行けるの?」と聞くくらい楽しみにしていた。
短時間の講習なので、ほとんどの人は借りた靴を使っていたが、私は最初から自分の靴があって少し得意な気分だった。近所の人がいらなくなって捨てようとしていた古い靴をもらってきたもの。使い古して薄く、柔らかくなっていたので足が痛くなることはなかったが、くるぶしを保護できないので危なかった。でも私ははそんなことを知らずに、その靴で普通に講習を受けていた。
あんな靴で滑れたことが上達の秘訣だったのかも、と母はよく冗談を言う。今、あの靴は母校に展示してある。

講習を受けてからますますフィギュアスケートに興味を持つようになり、姉と一緒に高等クラスに申し込んでもらうことになった。
講習のときは1クラスの人数が多かったので一人一人見てもらうことはできなかったが、高等クラスは1クラスあたり5,6人だったので細かく指導してもらえて、好奇心や知識欲を満たすことができた。
高等クラスに申し込んだあと、両親が私たちに念願の白いシューズと、きれいなウェアとタイツを買ってくれて、全世界を手に入れたみたいに嬉しかった。
高等クラスは週3回×10ヶ月で、スピン、ジャンプ、ステップの基本動作を勉強する。私はクラスで最年少だったので追いつくために人一倍努力し、技術がみるみる上達した。「ヨナは赤ちゃんのときも8ヶ月で歩き始めたし、もともと運動神経がいいのかも」と親戚たちが冗談で言っていた。
小学校に上がったとき一番うれしかったのが、姉と一緒におやつを食べながらリンクに行けることだった。当時リンクに行くことは、塾にいくような「勉強しにいく」という感覚ではなく、遊びに行く感覚に近かった。昔習っていたバレエやバイオリンは全然楽しくなかったものだけど。

高等クラスがもうすぐ終わるというときに、柳コーチが母親に会いたいといってきた。
「彼女には天賦の才があって、選手になる素質があると思うのだけど、どう思われますか?」
コーチが生徒を「ジャンプが良い」「センスがある」と褒めるのは生徒を励ますためで、まさかコーチの方から選手にならないかと言ってくるなんて思っていなくて、母はとても驚いたそうだ。私はまだ小さかったから、最後は両親が決めることだと思い、ただ「スケートをしているときが一番幸せ」だと伝えた。
母が言うには、あのとき一番印象が強かったのが、コーチの「フィギュアはお金のかかるスポーツですが、ご家庭の経済状態で彼女を支えることはできますか」という一言だったそうだ。たとえ才能があっても、経済的負担を考えると簡単には決められないことだった。
それでも両親は私のために苦難の道を選んでくれた。スケートの魅力にとりつかれた私を見ていたら迷いは消えたという。

高等クラスが終わったあと、姉はスケートを辞め、私は専門の指導を受けることになった。生活の中心がスケートになり、ピアノも辞めたし、放課後友達と遊ぶこともなくなった。全てはスケートのためだと分かっていたから悲しくはなかったし、母とリンクへ向かう道中はわくわくしていた。
初めて個人指導を受けたとき、ついにコーチに付ける、学びたいことを学べる!と興奮しながらアップしていたら盛大に転んで後頭部を強打した。スケートができる嬉しさで痛くなかったけれど、大きなこぶができた。
レッスンは雲の上にいるかのようで、寒くもないし、つらくもなかった。自分にとってスケート靴は、筋斗雲のように違う世界へ連れて行ってくれる魔法の靴だった。

◆クワンみたいになりたい
小学一年生のとき、家族と一緒にアラジンのスケートショーを見に行った。やっとジャンプができるようになったレベルの自分にとって、ショーの出演者たちの動作は飛翔のように感じられた。一つ一つの動作ばかり目で追って、内容は頭に入らなかった。
そのとき初めて、「スケート選手になりたい」という最初の夢ができた。
決定的な契機は1998年の長野五輪、録画したビデオを毎日見ていた。銀メダリストのミシェル・クワンに他の選手にはない特別なものを感じ、夢の理想のかたちを見つけたと思った。ビデオを見たあと、客間で何度も真似をしていた。
レッスンのない週末に、母に連れられてリンクに行くことがあった(今のように試合の圧力がない、ただの遊びとして)。そのとき友達とよく「オリンピックごっこ」で遊んだ(好きな選手になりきって、名前を呼ばれてリンクに入るところから演じる遊び)。私はクワンになりきって、動作や表情を真似していた。
母がいつも笑って「まだろくに試合に出たこともないのに、よくこんなにそっくり真似できるのね」と言っていたが、この遊びで選手の緊張を追体験することによって、試合で比較的落ち着いていられたのかもしれない。
コーチは「ヨナは試合向きの選手だ」とよく言ってくれて、それによってますます自信がついた。「できる」と思って試合に臨むと、普段うまくいかないジャンプもうまくできた。でも、試合のレベルが上がるにつれ、やっぱり緊張感も高まっていき、緊張感をどう処理するかが試合の結果を決めるということを理解できるようになった。
そして、いつも落ち着いて試合に臨むクワンがますます自分の理想になっていった。


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訳すのってむずかしいいいいい!!!(゚∀゚;;)
あっ、でも大分はしょってます。どのくらいかっていうとSTEP1の終わりが25ページ。……25ページ?なにこれ終わりが見えない。
今回は本当にスケートを始めた頃の話なので、いまいちツッコミ所もありませんなぁ……面白展開を期待されてた方には申し訳ないです。
ただオーサーコーチのコメントは含蓄があるなーと思いました。五輪で金メダルとったあと普通に競技続行した選手って、ぱっと思いつかないんですがどうでしょう。追記:ヤグディンは五輪後のワールドも出て、翌シーズンのGPSにも参戦してましたね。その後すぐに怪我で引退してしまったのですが(つд`)当のキムヨナもGPスキップで今のところ開店休業に近い状態ですしね。
ん?「始まりにすぎない」って、このコメントいつ頃のものなんだろう。現役続行を表明した頃なのかなあ?GPスキップ発表よりは前だと思いますが、この先の展開によっては皮肉なものになってしまうぞ。つーか今コーチ解雇騒動だから、すでに皮肉かもしれない。

今2章までは通読して、3章以降はぱらぱら目を通したくらいなのですが、2章には荒川静香、本田武史、ライサチェク、そして待望の(?)真央ちゃんの名前も出てきます。まぁ一部の人は本当に名前だけですがハハハ。後半にはネットで有名な話なんかも出てきます、多分。
1回に一章のペースでいくと全7回になりそうですが、まぁ今年中に終わりたいなーと。あくまで希望ですが。ゆる~くお付き合いいただけると嬉しいです。
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え、ジャパンオープン?何それおいしいの(゚д゚)?
雪組ショーのあとにメールを送った友人から、「テレビでフィギュア見たから」という理由で一ヶ月越しの返信が来ました。「中国杯行ってミキティ生で見てくる」と送ったら「生足 生腰 生肩」と返信が来ました。
今のところこちらの自宅には普通の番組が映るテレビがないので、ネットに頼りつつ切なく過ごすことになりそうです。

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無題
佐野さん、翻訳ありがとうございます!!
真央ちゃんも出てくるのね♪
楽しみに気長に待ってま~す。
ともちん 2010/10/06(Wed)19:13:42 編集
Re:
こんにちは~!
出てくるとは言ってもメインはキムヨナですが!(笑)
また暇を見つけてマイペースにのんびり訳していこうと思います♪コメントありがとうございます^^*
佐野  【2010/10/06 19:46】
無題
キムヨナ翻訳楽しめました。
続きが見たいです♪
お忙しいとは思いますが
どうか続きをお願いします♪
さくら 2013/03/22(Fri)15:18:58 編集
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